「究極の恋愛」の後に現れる「究極の無条件の愛」を体験して解脱になります
いまだに異常なほどの不倫バッシングなどをメディアで目にしますし、賛否両論な内容なので、記事『生涯を共にする夫婦やパートナーがいてはじめて、別の出会いがあって、その人との大恋愛を極めて悟ることができるのです』をnoteで情報公開中ですが、そちらの記事の続きのPK-PN情報になります。
「究極の恋愛」で、人間関係のいざこざが起きたとき、自分のエゴが出てしまったりすると解脱はできなくなるそうです。
現代ではタブーに近い「究極の恋愛」の複雑な関係は、古代では普通の関係だったのでエゴも出にくかったし、解脱もしやすかったそうですが、現代で「究極の恋愛」を経験してエゴを出すことなく、解脱に至れるのはほぼ不可能に近いそうです。
なので、解脱を目前にした最後の最後のステージで、何があってもエゴが出ないかどうかが試される現代のほうが「究極の究極の恋愛」とも呼べるでしょうね。
「究極の恋愛を十分に堪能したら、それで終わりではないんです」と、ノンモさんが言うには、
「究極の恋愛」の後に現れる「究極の無条件の愛」があるそうです。
その「究極の無条件の愛」を、ほんの少しだけ体験したら、解脱に至るそうです。
「だから、『究極の無条件の愛』を感じる相手は、『究極の恋愛』のお相手からではないんです。『究極の恋愛』のお相手に本当に愛されて、自分に愛される価値があることを全身全霊で認めることができて、その後に出てくるのが、全ての人類に対しての家族愛のようなものかもしれません」と、ノンモさん。
それって、ワンネスの体験のようですね。また、精神世界でよく表現されている「私はあなたで、あなたは私」といった状態の「あなた」と「私」の境界線を超えて、みんなつながっていて1つだったという悟りの境地みたいな感じですね~!と言うと、
「PK-PNが、究極の恋愛で自分を究極に愛することができるからこそ、最後の最後にワンネス的な無条件の愛を体験するって言ってます」と、ノンモさん。

なので、「究極の恋愛」の相手と一緒にいて自分を愛せないなら、それは「究極の恋愛」に達していないということ。
もしも私に夫がいるとして、ある時、究極の恋愛のお相手に出会ってその恋愛にのめりこんで夫を傷つけたとしたら、夫は私に傷つけられるいうお役目を果たしてくれているんだなぁと、感謝の気持ちがわくように思うのですが・・・と言うと、
「その逆で、八多さんが夫のために傷つけるという役割をしているそうです。相手が自分のためにやってくれているんじゃなくて、自分が相手のためにやっていることに気づくそうです。だからそこに罪悪感はないそうですよ」
ものすごく哲学的な回答ですが、なんだか分かります。それこそ、ワンネスなんだろうなぁと思います。
そしてこれこそが、「わたしは愛します。そして愛されます」なのかもしれません。
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心と身体を癒して、超意識を目覚めさせるセッションを、ぜひ一度ご体験下さい
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「究極の恋愛」で、人間関係のいざこざが起きたとき、自分のエゴが出てしまったりすると解脱はできなくなるそうです。
現代ではタブーに近い「究極の恋愛」の複雑な関係は、古代では普通の関係だったのでエゴも出にくかったし、解脱もしやすかったそうですが、現代で「究極の恋愛」を経験してエゴを出すことなく、解脱に至れるのはほぼ不可能に近いそうです。
なので、解脱を目前にした最後の最後のステージで、何があってもエゴが出ないかどうかが試される現代のほうが「究極の究極の恋愛」とも呼べるでしょうね。
「究極の恋愛を十分に堪能したら、それで終わりではないんです」と、ノンモさんが言うには、
「究極の恋愛」の後に現れる「究極の無条件の愛」があるそうです。
その「究極の無条件の愛」を、ほんの少しだけ体験したら、解脱に至るそうです。
「だから、『究極の無条件の愛』を感じる相手は、『究極の恋愛』のお相手からではないんです。『究極の恋愛』のお相手に本当に愛されて、自分に愛される価値があることを全身全霊で認めることができて、その後に出てくるのが、全ての人類に対しての家族愛のようなものかもしれません」と、ノンモさん。
それって、ワンネスの体験のようですね。また、精神世界でよく表現されている「私はあなたで、あなたは私」といった状態の「あなた」と「私」の境界線を超えて、みんなつながっていて1つだったという悟りの境地みたいな感じですね~!と言うと、
「PK-PNが、究極の恋愛で自分を究極に愛することができるからこそ、最後の最後にワンネス的な無条件の愛を体験するって言ってます」と、ノンモさん。

なので、「究極の恋愛」の相手と一緒にいて自分を愛せないなら、それは「究極の恋愛」に達していないということ。
もしも私に夫がいるとして、ある時、究極の恋愛のお相手に出会ってその恋愛にのめりこんで夫を傷つけたとしたら、夫は私に傷つけられるいうお役目を果たしてくれているんだなぁと、感謝の気持ちがわくように思うのですが・・・と言うと、
「その逆で、八多さんが夫のために傷つけるという役割をしているそうです。相手が自分のためにやってくれているんじゃなくて、自分が相手のためにやっていることに気づくそうです。だからそこに罪悪感はないそうですよ」
ものすごく哲学的な回答ですが、なんだか分かります。それこそ、ワンネスなんだろうなぁと思います。
そしてこれこそが、「わたしは愛します。そして愛されます」なのかもしれません。
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